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作成・橋本努

アリストテレス『ニコマコス倫理学』岩波文庫(上・下)

 

・アリストテレス(B.C.384-B.C.322)の息子ニコマコス(およびその教育者テオフラストスの助力)によって編集された講義の草稿。

 

第一巻:序説、幸福論

 

・「善は個人にとっても国にとっても同じものであるにしても、国の善に到達しこれを保全することのほうがまさしくより大きく、より究極的であると見られる。」(17)

・【幸福(エウダイモニア)】=「われわれの達成しうるあらゆる善のうち最上のもの」(20)

・最も低俗な善=快楽。享楽的生活。政治的生活。観照的生活。

・政治の目的は「名誉」であるようにみえるが、しかし名誉は善よりも皮相的である。善は、「本人に固有な、取り去ることのむずかしいものでなくてはならない」(23)。→政治的生活の目的は、卓越性=徳(アレテー)にある。

・【善】=「あらゆる働きや選択においての目的であるところのもの」(29)

・【最高善】=「究極の目的」=「つねにそれ自身として望ましく、決して他のもののゆえに望ましくあるところのないもの」=「幸福(エウダイモニア)」(30)。では「幸福とは何であるか」→すぐれた人間の機能を満たすこと。すなわち、魂(プシュケー)の「ことわりを有する部分」、しかも、卓越性(アレテー)にかかわる部分を満たすこと。(33)「幸福な人とは、よく生きているひと、よくやっているひとを意味する」(36)

・【最高善=卓越性の快楽】:「総じて卓越性に基づく働きは卓越性を愛する人々にとって快適である」(37)。「実際、さらにいえば、うるわしい行為によろこびを感じないひとは善きひとではない。」(38)

・【幸福は生まれか育ちか】:「生まれのよさとかよき子どもたち(に恵まれる)とか容姿の美とか」「このような好条件の具備がやはりさらに必要であるらしい」(39)。→「ここからして、また、幸福とは学習とか習慣づけとかその他何らかの訓練によって得られるものであるか、それとも何らかの神のさだめ(テイラ・モイラ)、ないしは運(テュケー)によって与えられるのであるかという問題も生じてくる」(39-40)

【政治とは人間を幸福な存在にすること】:政治の目的は最高善の達成である。「政治とは市民たちを一定の性質の人間に、すなわち善き人間、うるわしきを行なうべき人間につくるということに最大の心遣いをなすもの」である(41)

・「真の意味における善きひと・賢慮のひととは、……いかなる運命をも見事に耐え忍び、与えられたものをもととして常に最もうるわしきを行なうものなのであって、それはあたかも、よき将軍は手許にある軍隊を用兵上最もたくみに使用するし、また靴工は与えられた皮革から最もうるわしい靴をこしらえ、他の工人たちもすべてそうであるのと一般である。」(45)

 

 

第六巻 知的な卓越性

 

・【魂の二つの部分】:@「ことわりを有する部分」、A「ことわりなき部分」

→このうち、「ことわりを有する部分」には次の二つがある。(a)「認識的部分」=その端緒(アルケー)がそれ以外の仕方において在ることのできないごときものごと。(b)「勘考的(思量的)部分」=それ以外の仕方においてあることのできるものごと。(216-217)

(a)(b)両者の「それぞれをして最もよくその『真を認識』せしめるような魂の『状態』、それがこれら両部分の卓越性ないしは徳(アレテー)にほかならない。」(220)

 

【知的卓越性をもたらす五つのもの】:技術(テクネー)、学(エピステーメー)、知慮(フロネーシス)、智慧(ソフィア)、直知(ヌース)。

 

■「ことわりを有する魂」の二つの部分

1.認識的部分

=智慧(フィリア:哲学・第一哲学)+観照的生活(テオーリア)

1−a.直知(ヌース):証明の存在しない定義、基本命題(アルケー)

1−b.学(エピステーメー):論証ができるという状態

2.勘考的部分

他の仕方においても在ることができる事柄:人間的な諸々の事柄であり、思量することのできるもの。

2−a.知慮(フロネーシス)+行為(プラクシス)::善悪についてのことわりを具えて真を失わない実践可能の状態。

2−b.技術(テクネー)+制作(ポイエーシス):真を失わないことわりを具えた制作可能の状態。

 

■智慧/知慮/思量/情理の美徳

・「思量」「学」「勘」「慧敏」

・「『同情に富んだ』とか『情理のある』とかいう場合のいわゆる情理(グノーメー)とは、『宜(エピエイケス)』がどこに存するかについてのただしい判断力を意味する。その証拠に、われわれは、『宜しきひと』(エピエイケース)とは何よりも同情に富んだ人であると考えているし、また、ある場合においてその事態に同情をもつということが『宜』にほかならないとなしている。同情とは、しかるに、『宜』の存するところをただしく判断しうるごとき情理にほかならない。」(239)「『宜』ということが、すなわち、あらゆる善きひとびとの対他的な態度に共通しているわけである。およそ……行為なるものは、すべて個別的なもの究極的なものの世界に属している。知慮あるひとは、……こうしたものごとをやはり知っている者でなくてはならないのであるし、ものわかりや情理のかかわるところもこうした諸々の行為にほかならず、行為は、……究極的な『個』という性質を持つものなのである。」(239-240)「経験を積んだ年輩者や知慮あるひとびとの主張や見解に対しては、それがたとえ論証を欠くものであっても、やはりそれあるものに劣らず注意を払わなくてはならない。」(241)

・「知慮(フロネーシス)は智慧(ソフィア)よりも劣ったものでありながら、それが智慧よりも有力な位置を占めるとすれば、これは不条理なことだと考えられよう。」(242)

・「医学が健康をつくりだすごとくにではなく、健康という『状態』が健康をつくりだすごとき仕方で、智慧は幸福をつくりだすのである。智慧は、すなわち、それが人間の全体的なアレテーの構成部分であることのゆえに、それを魂の『状態』として所有するところの、そしてそれに即した活動を行なうところのひとをして、まさしくそのことによって幸福なひとたらしめるのである。また、人間の人間的なはたらきの実現は、知慮と、そして倫理的徳(エーティケー・アレテー)に俟たなくてはならぬ。」(243)

・「知慮が智慧に対して支配的な力を有しているなどというわけではなく、また、それが魂のより上位の部分を支配しているなどというわけでもない。」(248)

 

 

第七巻 抑制、快楽(A稿)

 

・【三つの好ましくない倫理的性状】:@「悪徳(カキア)」、A「無抑制(アタラクシア)」、B「獣性(テーリオテース)」

・【快楽と放埓】「元来、もろもろの快楽(ヘードネー)のうち、若干のものは必須的である……が、それもしかしある限度までであって、それの過超は(そうしてそれの不足も)必須的とはいえないのであり、欲情についてもこれに順ずる。そして苦痛の場合もやはりこれと同様である。それゆえ、もろもろの快適なものごとの過超を、ないしはそうした快適なものごと過超的な仕方で、それも選択に基づいて、もっぱら快楽それ自身のゆえに……追求するひとが放埓なひとである。すなわち彼は、かならずや後悔することのない、したがって癒しえない人間である。……放埓なひとの反対は快楽の追求において不足したひとなのであって、これら両者の中間に位置するのが節制的なひとである。」(39)

*「放埓な(アコラストス)」という語には「懲戒(コライゼン)しえない」という意味が含まれている。

・【抑制力と我慢強さ】「『抑制力なきひと』には『抑制力あるひと』が、そして『我慢のないひと』には『我慢のあるひと』が対立する。すなわち、我慢するということは耐えるということなのであるし、抑制ということは打ち克つということにほかならないのであるが、『耐える』ということと『打ち克つ』ということとでは、ちょうど『負けない』ということと『勝つ』ということとの相異なるごとくに異なっている。抑制のほうが我慢強さよりも、より好ましきものたる所以である。」(40)

・【抑制力と節制力】「前者[抑制力]は、もろもろのあしき欲情を有しているにもかかわらず、しないのに対して、後者[節制力]は、あしき欲情を有していないがゆえにしないのであり、また、後者[節制力]は、ことわりに背いて快楽を感ずることのないようなそうしたひとであるのに対して、前者[抑制力]は、そうした快楽を感じはする、だがそれによって導かれることのないごときひとなのである。」(48)

・【快楽に関する人々の所論】「いま、(1)快楽は総じて善ではないと考えられている根拠は次のごとくである。(a)すべて、快楽とは「あるべき本性への生成過程でその知覚されたもの」にほかならない。しかるに、生成とか過程(ゲネシス)は決してその終極ないしは目的とするところ(テロス)と類を同じくするものではないのであって、たとえば、いかなる造営の作業も家屋そのものと類を同じくするものではない。(b)節制的なひとは快楽を避ける。(c)知慮あるひとの求めるところは無苦痛(アリュポン)ということなのであって、快適ということではない。(d)快楽は、われわれの知慮の働きに対する障害をなす。それも、われわれがその快楽に悦びを感ずることのはなはだしければはなはだしいだけ、それだけにまた障害も大きい。たとえば性的快楽のごとき。実際、何びともこうした快楽に耽っているかぎり、まったく知性を働かせることができない。(e)快楽そのものを産み出すようないかなる技術も存在しない。しかも善はすべて技術の所産でなくてはならぬ。(f)子どもや下等動物が快楽を追うものなのである。

また、(2)あらゆる快楽が必ずしもよき快楽ではないということの論拠は、快楽には、醜悪な指弾されるような快楽もあるし、有害な快楽もあるのだから、ということにある。実際、快適なものごとのうちには不健全なものも存在しているのである。

 そして、(3)快楽が最高善ではないという論拠は、快楽は究極目的(テロス)ではなくしてそれへの過程(ゲネシス)なのだから、というにある。」(51-52)

 

・【アリストテレスの快楽論】「快楽は本来、『活動(エネルゲイア)』にほかならず、それ自身目的(テロス)なのである。それは、われわれが何らかの能力を獲得するにいたる過程において生ずるものではなく、かえって、われわれが既得の何らかの能力をはたらかせ、活動するというところに生ずる。そして、目的たるものがそれへの過程とは何らか別のものであるということも、必ずしもあらゆる場合についていえるわけではなく、ただ本性の完成に至るための『過程』についてのみ、然るにすぎない。だからして、快楽とは『知覚された生成ないしはその過程』であるという主張は正当ではない。われわれはむしろ、快楽とは『本性的な状態の活動』であるとなすべきであり、また、知覚されたに代えるに障害なきをもってすべきであろう。」(54-55)

*「活動(エネルゲイア)」と「生成過程(ゲネシス)」の区別。

・「好ましきものは、しかるに、快楽にほかならない。してみれば、最高善は何らか或る快楽でなくてはならないであろう。……このゆえにこそ、誰しも幸福な生活は快適なものでなくてはならないとなし、快楽というものを幸福のなかに組み入れるのであって、それは至当である。けだし、いかなる活動といえども、もしそれが阻害を受けるならば、究極的なもの・完全なものではありえない。幸福は、しかるに、究極的・完全なものに属しているのである。幸福であるためには、肉体的なそして外的なもろもろの善、ならびに運(テュケー)というものを併せ要する所以もここにあるのであり、つまりはそうした面から阻害を受けることのないためにほかならない。」(58)

・「もちろん、『本性』とか最高の『状態』とかは、彼らすべてにとって同一ではないし、また同一であると考えられてもいない。だから、彼らすべてが同一の快楽を追求しているわけではないが、しかしやはり、彼らのすべてが快楽を追求していることは事実である。おもうに、彼らの追求している快楽も、ほんとうは、彼ら自身が目して快楽となしているところの、ないしは彼らが快楽だと主張するであろうところのそれではなく、かえって、すべて同一な快楽にほかならないのであろう。万物は何らかの神的なものを本性的に有しているのだからである。」(59)

・「ただし、同一のことがらが常に快楽であるということは決してわれわれにはない。それは、われわれの本性は単純な本性ではなく、或るこれと異なったもの(われわれをして可滅的たらしめるごとき)がわれわれのうちには存在しているからである。その結果、もしその一方が何ごとかをなすならば、このことは、いま一つの本性にとって非本性的となる。……もし、その本性が純一無雑な本性であるならば、常に同一の働きが最も快楽であることも可能であろう。神は常に一つの無雑な快楽を楽しむものなる所以である。けだし、活動(エネルゲイア)というものには運動(キネーシス)のそれのみならず無運動(アキネシア)のそれも存在するのであり、ここでは快楽は運動によりも、むしろ寂静(エーレミア)に存している。」(63)

*「運動」は、建築のように、終極的目的をもった過程である。これに対して「活動」は、それ自体が充足した目的であり、そこには生成もなければ運動もない。

 

 

第一〇巻 快楽(B稿)、結び

 

・快楽を悪しきものとみなす人のなかには、確信のもとに語っているのではなくて、「そのようにみなしたほうがわれわれの生活にはいいだろう」と考えてそのように説く人もいる。つまり、「世上、多くの人々は快楽に傾き、もろもろの快楽の奴隷となっている。だからして反対の方向へこれを誘導することが必要である、そうすれば彼らもおのずから『中』に到達することになるだろうから」という考えである。/「こうした考えは、しかし、あまりおもしろくない。というのは、情念(パトス)とか行為(プラクシス)の領域に属することがらについては理説(ロゴス)だけでは実際の行動(タ・エルガ)ほどの信用を繋ぎえないのである。」(150)

・【プラトンの説】「快楽は『善』ではない。なぜなら『善』というものは、それにいかなるものが付加されても、それによって好ましさを加えないはずである。また、これ以外のいかなるものの場合にあっても、およそ、ある即自的な善を伴うことによって好ましさを加えるごときものは明らかに『善』ではありえないことは明らかである――。」(152-153)

 

・【アリストテレスの説:快楽と幸福は「質」をもたない】「快楽は『質(ポイオテース)』に属しないことは事実であるが、このゆえに快楽は善に属しないということにはならない。実際、卓越性に基づいて活動するということも『質』ではないのであるし、幸福ということも『質』ではないのである。」(154)

*「質」は「カテゴリー」に分節化可能であるが、幸福や快楽は「本質」であって、それは神的なもの・一なるものであるがゆえに分節化することができない。

・「快楽」とは、「本性的なものの充足」であり、「快楽を感じるものが肉体であるとは考えられない。」(156)

・「もろもろの快楽のうち特に非難に値するような性質の快楽を持ち出してくるひとびとに対しては、それらは決して快適であるのではないということを指摘すべきであろう。なぜなら、悪しくあるところのひとびとにとってたとえ或ることがらが快適であるとしても、これらが快適であるとは――『これらのひとびとにとって』という条件をつけないかぎり――考えられないだろうからである。」(157)

 

・【アリストテレスの別の見解:快楽異説】「それぞれの感覚に応じてその快楽のありうることは明らかであり、……またかかる快楽の生ずることの最もいちじるしいのは、この感覚が最善なるそれであり、かつ最善なるものを対象として活動する場合であるということも明らかである。もし、可感的な対象も感覚の主体も、ともにこのようなすぐれたものであるならば、かかる対象と感覚主体との間にはたらきが行なわれるにおいては必ずやそこに快楽が存するであろう。快楽は、この場合、活動を究極的に完璧たらしめるが、それはしかし、活動の主体に内在するところの状態(ヘクシス)が活動(エネルゲイア)を完璧たらしめるというのと同じ意味においてではなく、快楽はいわば、若ざかりの年頃のひとびとにおける『若やかさ』といったふうに、何らか付加的な完璧性(テロス)として、活動を完璧たらしめるのである。

 どうして、それでは、何びともこのような快楽をいつまでも持続できないのであろうか。それは、おそらく、疲労が来るのだといっていいであろう。……或ることがらが最初のうち新しいあいだはわれわれを悦ばせても、後になるとそれほどでなくなるのも、これと同じ理由による。すなわち、最初のうちは知性の働きは強く触発され、緊張してこれらに関して活動する……のであるが、まもなくその活動は……弛緩したものとなるのであり、だからして快楽もまた、最初のような生彩を失うにいたる。

 快楽を欲しない人はいないといえよう。何びとも生きることを希求しているのだからである。『生きる』とは或る活動であり、各人はその最も愛するところのものに関して、その最も愛する方面の機能を働かせて(たとえば音楽的な人は聴覚によって音律に関して、学を愛する人は知性によってその観照の諸対象に関して等々)活動するが、快楽はしかるにこの活動を究極的に完璧たらしめ、したがってまた各人の追求しつつある『生』を完璧たらしめる。それゆえ、ひとびとが快楽を希求するもの当然であろう。快楽は各人にとっての『生きる』ということ――それは好ましきものである――を究極的に完璧たらしめるものなのだからである。」(163-164)

*医学が健康の活動をもたらすのではなく、健康の「状態」が健康の「活動」をもたらす。

・「音楽を愛する人々とか、建築を愛する人々なども、各自の仕事に悦びを感じつつやっておればこそ仕事についての進歩もあるのである。快楽はかく活動を促進するものであるが、活動を増進するのはその活動に固有の快楽でなければならぬ。」(165)「固有の快楽はその活動をして精確なものたらしめ、これをより永続的なより善きものたらしめるが、異質的な快楽はこれに反してその活動を阻害する」(166)。「よき活動に固有な快楽はよろしき活動であり、よくない活動に固有な快楽はよからぬ快楽である。」(167)「およそいかなることがらにおいてもその尺度となるのは、卓越性ないしは徳であり、……快楽の場合においてもまた、かかるひとに快楽と見えるところのものが快楽である」(168-169)